京極夏彦『絡新婦の理』講談社,1996

絡新婦の理 (講談社ノベルス)
理に巣喰うは最強の敵――。京極堂、桜の森に佇つ。

当然、僕の動きも読み込まれているのだろうな――2つの事件は京極堂をしてかく言わしめた。房総の富豪、織作(おりさく)家創設の女学校に拠る美貌の堕天使と、血塗られた鑿(のみ)をふるう目潰し魔。連続殺人は八方に張り巡らせた蜘蛛の巣となって刑事・木場らを眩惑し、搦め捕る。中心に陣取るのは誰か?シリーズ第5弾。

んっん〜、長かった。暇な時にちょくちょく読んでたのだが、ようやく読み終わりましたよ。いやしかし長かった。

この作品では冒頭に、真犯人と京極堂の対峙、というシーンが用意されていて、最後まで読むと冒頭に至るという構造だった。この手の造りは個人的には凄い好き。例えば漫画『ベルセルク』も主人公ガッツが片目と片腕を失っているところから始まるわけだけど、結末を先に見せられると如何してそうなったのか?という過程に、否が応にも興味がそそられてしまうのだ。

本作冒頭シーンにおいては、物語の鍵を握る人物の名前や、後から読むと「なるほど」と思わせられるような言葉が出てきている。そして実は冒頭でほぼ事件の論理的構造を語り尽くしている。その子細が以降の章で語られていく。

さて本作でも、今までのシリーズで語られてきたような哲学的なテーマがそこかしこに登場してくる。この作品も含め、京極堂シリーズの魅力は、脳による世界の認識、あるいは言葉による世界の認識、それらに関係してくる宗教、民俗などの歴史的考察などなど、京極堂(あるいは著者)の豊富な知識に依拠しつつ、事件を解きほぐすところにあると、私は思っている。そしてその解きほぐし方が、極めて「理系的」なのだ。或いは「理系的」と言うよりも、「自然科学的」(ナチュラル・サイエンス)と言った方がいいかもしれない。そこらへんは京極堂の決め台詞「この世には不思議なことなど何もないのだよ」に集約されていて、事件が起きた当初は不思議だったものが、彼の呪(しゅ)によって見事解体されていくのだ。その過程がなかなかどうして心地よいのである。

(以下、ネタバレしない範囲で内容に関わります)もっともそれは相対的にみれば他の小説より「自然科学的」かもしれぬが、極めて境界的であるともいえる。シリーズ一作目『姑獲鳥の夏』冒頭で、京極堂と関口の間で交わされた「不確定性の原理」(骨壷の中の仏舎利は壷を開けた瞬間に干菓子に変わっているかもしれない)に関する議論から続く、京極堂の憑物落としのやり方に纏わる議論は、本作でも登場する。即ち京極堂は、

「慥かに、観測者が無自覚である場合は不確定性の理から逃れられるものではありません。だが観測者がそうした限界を十分に認識している限り、己の視点を常に括弧に入れて臨む限りはそのうちではない。僕は事件の傍観者たることを自覚している。つまり観察行為の限界を識っている。だから僕は言葉を使う。言葉で己の限界を区切っている。僕は僕が観察することまでを事件の総体として捉え言説に置き換えている。僕は既存の境界を逸脱しようと思ってはいない。脱領域化を意図している訳でもない。――僕の悲しみはそこにあるのです。あなたにはそれはないのかと、ずっと思っていた。しかしどうやら、あなたはそれに無自覚だっただけのようだ――」

と冒頭で述べている。真犯人は理を以って事件をコントロールする立場にあったが、それと京極堂が対峙することによって彼の憑物落としのやり方というものがより明らかになったと言えよう。世界は観測することによって確定する。そこから世界に関する情報を獲得しようとする行為そのものが、事象の進行に影響を及ぼしていく。事象と観察者・観察行為は切り離すことが出来ず、観察者もまた世界の一部となる。しかし陰陽師京極堂は尚も踏みとどまって、カッコ付きの立場から"言葉"(呪・しゅ)を使って事件を解きほぐす者なのだ。だから京極堂ナチュラル・サイエンスの文脈で見ることはやはりちょっと違う気もするのである。

さてさて、次は『塗仏の宴』。そろそろ人物相関図を書きながら読まないと混乱しそうだ・・・。

追記:京極堂のモナ←京極既読の方はご覧あれ