梨屋アリエ『ピアニッシシモ』講談社,2003

ピアニッシシモ

家のなかに、一日のうちのたった三分でもいいから、ちゃんと私の話を聞いて、受け流さずに受け止めてくれる人がいてほしい……松葉
独り暮らしができるようになったらさっさと家を出て、すっごい恋愛をして、好きな人と幸せに平凡に暮らしたい……紗英

「強弱記号のピアニッシモよりもっと小さい音…その淡い音が確実に存在しているって証をはなってあげたい」 松葉と紗英の関係は五線譜の上でどんな曲を奏でるか?

ちと前に読んだ物です。随分前に、TBSラジオブックスでこの本が朗読されていて、それできっかけで購入。著者は"講談社児童文学新人賞"に受賞している方なのだけど、この本も児童向け文学。内容は、中学生松葉と紗英の成長物語、って端的に書くと味も素っ気も無いな(笑)


両親から親という役目を差し引いて、人間として見直したら、二人は理想の大人だろうか。松葉はその中に未来の自分を見たようで不安になった。この調子で毎日のほほんと過ごしていたら、最悪の場合、大人になったことにも気がつかないで、くたびれて死んでしまう。松葉は、あまりにも無防備に長々と子ども期を過ごしてきた。大人にさえなれば、青虫が蝶になるように、自動的にかっこいい大人になれると信じこまされて。ただひたすら漠然とあこがれていただけど、大人の世界は完璧ではなかったのだ。

"大人"って一体なんなんでしょうねぇー、ってそんな哲学的な問いを発してもしょうがないわけだが、子どもから大人への成長ってかなり便宜的な捉え方だと思う。どこから"大人"で、どこまで"子ども"なのか、その線引きは法律や慣習に求めることができないことも無いけれども、それも便宜的に引いてるものに過ぎない。「大人になった」っていう明確な自覚を持って生活することってなかなか無いでしょう。

それで思い出したのは、アリエスの『〈子ども〉の誕生』。これによれば、「子ども」という概念はそもそも西洋近代が生み出したものであるとされる。以下軽く引用。

近世期までは、子どもが遊びに熱中すれば仕事を疎かにすると批判され、成長期ならではの豊かな想像力を発揮すれば妄想症の未熟な大人と考えられた。だが、近代はこうした子どもに特有の感受性世界を認め、そこから独自の存在としての子どもを発見していく。反面、「大人」の役割も際立ち、仕事や生産を通し社会全体の機能の一翼を担うよう期待されていく。その結果、大人は子どもの指導者やモデルにはなれても、一緒に遊びに興じることはできなくなる。*1

"子ども"と"大人"という二項対立的構図が登場することによって、庇護されるべき"子ども"と、それを保護し模範たる"大人"という役割が際立つようになる。その構図において、例えば"大人"が海洋堂のフィギュアに熱中して「大人買い」したりすると、「ヒーローになりきれなかった父親」(ピアニッシシモ66頁)なんて思えてくる。でも結局、"大人"もいい加減なものなんだってことに気が付くのが、本作の主人公。"大人"も"子ども"の延長に過ぎないのだから、ある意味当然なのかもしれない。

つまるところ、「大人になる」っていうことは、"大人"と"子ども"という二項対立の虚構(フィクション)に一旦は依拠して、"大人"から規範性を学ぶと同時に、"子ども"は成長することによってその虚構(規範を説いてきた大人も子どもの延長に過ぎないこと)に気付き、それでもなお許容することなのだと思う。


そういう大人が家族にいるのは厄介だ。けれど、けったいな消費行動でしか自分を表現できない夫婦を、いつかはおもしろい大人だと思えるときがくるのだろうか。不満はたくさん転がっている。でも、もうしばらく松葉はこのおかしな夫婦のそばで育っていかなくちゃならないわけだし、いまさら文句を言って変わるような人たちではない。だとしたら、松葉が変わっていくしかない。