イラクのまとめ的私的感想

人口に膾炙されて久しいイラク人質の件であるが、昨日漸く記者会見があったようである。私は、件の三人(実際は二人)が記者会見で、山一證券の社長よろしく家族と肩を並べて「国民の皆様にお詫び」をするものだと勝手に思っていたが、どうもそういった解釈の仕方は妥当しなかったようだ(無論、謝罪はしていたが)。

ところで今年の流行語大賞には「自己責任」がノミネートするだろうと思う。私が一番驚いたというか、興味深かったと思った点は「自己責任」などという小難しい四字熟語が自然流行した点である。小難しい単語が流行したことが、不思議なのではない。過去に遡れば「スキゾ」・「パラノ」といった術語の類も流行語として選ばれているわけであるから、小難しい単語も世人が理解ができれば流行するものなのであろう。今回不思議だったのは、誰かが本に書いたわけでもなく、事件発生とともに自然とこの四字熟語が巷間で語られ、或いはメディアに登場してきたことなのである。自己責任という言葉はそれほどに、我々に沁み付いた言葉だったのだろうか。

兎にも角にも私は、今回の一連の、象徴的とすら言えるような事件を通して、否が応にも我々の社会が変化しつつあることを実感した。いや寧ろ、もう既に制度としては一部変わってきているのであって、その変化が一つの大きな社会的事件として具現化・表面化したことが、とても衝撃的であった。

先日、「自己責任の世の中である」(id:lotusight:20040412#p1)などと書いたように、既に社会の仕組み・制度は「事前チェック・規制」重視から「事後チェック・救済」重視に変わりつつある。例えば行政であるならば、地方分権の潮流は詰まる処、自治体への自己責任乃至は自己管理を求めるものであると見えるし、司法の側面から見れば、法曹を増やし裁判制度を有効足らしめようとする司法制度改革は、そのような救済型社会への対応に他ならない。確定拠出型(401k)年金の運用であるとか、介護福祉の「措置制度」から「介護保険制度」への移行に伴う"措置から契約へ"の転換であるとか挙げればきりが無いが、社会の中におけるありとあらゆる規制は取り外され、個人個人の自主的な管理において自己の名における責任の下に行動することが、強く要請され始めているのである。

現実の社会の制度として、自己管理或いは自己責任が重視されつつあるというのは理屈では分かっていたつもりであった。しかしながら先述の通り不思議に思ったのは、そのような単語が自然と人口に膾炙された点にある。不思議に思えるのは、私の専断であるのかもしれない。或いは我々のメンタリティが、自己責任や管理を重視するものに既に変わっていると考えることもできる。そう考えればスッとする。我々のメンタリティは既にそういうものなのであるから、自己責任が流行したことも不思議には思えなくなる。

しかしながらメンタリティはそう簡単に変わるものでもないと思う。社会の制度は容易に変更する事ができるが、我々の考え方の本質というものは制度ほどに容易には変更が叶わないからだ。私は寧ろそこにおいて、逆説的に自己責任の持て囃された背景を看取することができるのではないかと思う。

即ち我々自身や我々の社会が、今までの「事前チェック・規制型社会」から「事後チェック・救済型社会」へさほど変わっていない(制度的に変化したにはせよ)、乃至は未だ変化の過渡期にあるがために、我々は自己責任の論理が何の為の論理であるかということを見失い、結果として社会の安定性確保のために存在する論理、それ自体を追求することが目的となり、そして自己責任を殊更に強調するという今回の結果に至ってしまったのではないか、ということである。

近年、成果主義賃金とか能力主義などと声高に叫ばれることが多い。成果主義の名の下に賃金がカットされるといったことがよく話題に上るが、このような事例と前述の自己責任の強調は似ているように思えてならない。ロジックの部分においては正しいのだが、目的が見失われてしまっているのである。成果主義乃至能力主義は社員のモチベーションを上げる為にあるのであって、(少なくとも建前上は)決して都合よく賃金を減らすことが目的の仕組みではないはずだ。それと同じで自己責任の論理も、決して「自業自得だ」と言って救済を放棄したり、或いは放棄させたりするための論理ではない。

このような謂わば「手段の目的化」を続けている限り、自己責任の論理を社会に敷衍していくことは、私は望ましいことだとは思わない。無意味である以上に、我々が我々自身の首を締めているようなものである。

将来あるべき社会のあり方、それへの道筋はある程度定まったものとして既に存在している。それを確乎り見据えた上で、必要な考え方を咀嚼していかなければならない。そうでもしなければ、「またイラクへ行きたい」などと言っている人が『"全体"の利益を蔑ろにし、個人の権利のみを声高に主張する身勝手な人間』以上の者には、決して見えることは無いし、建前では個人の自由を保障しながらその実、それを萎縮させるような論理が罷り通る事になりかねないと、私は思う。