*大 手 小 町*


http://www.yomiuri.co.jp/komachi/reader/2004040100007.htm

大手小町ってたま〜にみるんですが、結構面白い。「給湯室を覗く」的な感覚ですかね。

最近TBSラジオラジオブックスのコーナーで、酒井順子の『負け犬の遠吠え』の朗読を放送していたので聞いてんだけど、なんだかイヤ〜な内容。もし女性に生まれていたら、いやらしくも琴線に触れるような文言に一喜一憂するんだろうか。勝ち犬だの負け犬だのと類型化することには何ら意味が無いと心で思いつつ、やっぱり気にしちゃうんだろうか。そう考えると女に生まれなくてよかったと思うな〜、ホント。

酒井順子って所謂、キャリアーウーマンらしい。否、キャリアーウーマンって用語自体アナクロな気もするし、勝ち犬なんて表現はそれの言い換えに過ぎないのかもしれない。

毎日新聞の夕刊では桐野夏生が「負け犬ってレッテルを自らに張って初めから逃げてる」みたいな事を書いてたんだけど、もし酒井順子自身が自らを勝ち犬だって思ってるんなら、桐野の批判も妥当するかもな。まぁいずれにせよ、勝ち犬⇔負け犬の二項対立で捉えてる限りは、水掛け論に等しい。そのレベルに居る限り、酒井順子の掌に居る孫悟空みたいなもんだ。

さて男性である私が、その二項対立から一歩身を引いて思うところを書くならば、結局一番ずるいのは酒井順子であり、それが聊かむかついている。勝ち犬だの狛犬だのといくら四の五の言ったところで、結局そんな訳の分からん概念を持ち出してきて俗人の感情を引っ掻き回して本が売れた酒井順子だけが、唯一の勝ち犬じゃあないか。

酒井順子は自らがお釈迦様だと自覚してるのかどうかは知らないが、いずれにせよメディアに出てきては、「私の本はコレコレこうで〜」とか「結局はあなた次第〜」みたいなことを訳知り顔でのたまっている。酒井が自覚してようがしていまいが、何れ巫山戯た話としか私には思えない。

要するにアレだ、新興宗教みたいなものだ。信者候補を捕まえて、それに対し徹底的に不安を煽る。そもそも不安であるか否かなんて極めて相対的だし、それこそ本人がどう思うかに帰するのにも関わらず、教祖酒井順子は独自の用語を用いて、その観念的基礎を作る。そして読者=信者候補の不安を煽り、ご託宣を発するわけだ。こうして見ると全く馬鹿馬鹿しい。『年収300万円時代を生きぬく』なんて下卑た本を出した森永卓郎に対する憤りと同じような感じがする。馬鹿馬鹿しい。

ネギ振り回して踊ってる新興宗教信者は傍から見れば馬鹿馬鹿しい限りだが、本人達がそれで「救われる」のならば良いのかもしれない。まさに「信ずる者は救われる」だ。お釈迦様の掌で、金斗雲に乗るのが楽しければ、それはそれでよいだろう。勝手にやってくれって感じだ。しかし私が何かいけ好かない感覚を持つのは、お釈迦様が他ならぬ俗物に過ぎないからなのかもしれない。