『イノセンス』(2004日)

後半の方に、若干ネタバレ含みます

「孤独に生きよ、悪を為さず。求めるものは少なく、森の中の象の如く」

主人公は、続発するテロ犯罪を取り締まる政府直属の機関・公安九課の刑事バトー。
バトーは、生きた人形(サイボーグ)である。腕も脚も、その体のすべてが造り物。残されているのはわずかな脳と、一人の女性、“素子(もとこ)”の記憶だけ。
ある日、少女型の愛玩用ロボットが暴走を起こし、所有者を惨殺する事件が発生。「人間のために作られたはずのロボットがなぜ、人間を襲ったのか」。さっそくバトーは、相棒のトグサと共に捜査に向かう。電脳ネットワークを駆使して、自分の「脳」を攻撃する“謎のハッカー”の妨害に苦しみながら、バトーは事件の真相に近づいていく。

「行けよポイントマン、後ろは俺が固める・・・・昔のようにな」

ようやっと見てまいりました、『イノセンス』。

予想していたよりも分かり易いストーリーだったので肩透かしをくらうとともに、それでもやっぱりなんだか哲学的な話が沢山散りばめられていて、それを斟酌すれば難解なお話の部類でしょう。そういう映画に対し、偉そうに講釈垂れるのもなかなか気が引けることですが、まぁ軽く感想をば。

まず『攻殻機動隊』をご覧になっていない方は恐らく話について行くのすら、困難だったのではないでしょうか。電脳、義体化、ゴーストハック、攻性防壁などといった術語の連発で、ちんぷんかんぷんになってしまうじゃないんでしょうか。隣にいたお客さんが、観覧後にパンフレットを手にとって一言、「『少佐』って女だったんだー」と言ってらっしゃいまして、軽くショックを受けましたが、まぁ本人が楽しければそれでいいんでしょう。

以下ネタバレ有りなので、お読みになる方は文字を反転させてください


率直な感想としては、なんだか悲しいストーリーだなという感じでした。劇中の最初の方に見られたように、バトーは"素子"を失った喪失感の中にあったと思います。バトーは、あの人形を通して素子と再会するわけですが、それによって彼の喪失感は埋め合わされたはず。しかし素子は「ネットにアクセスする時は、いつだってあなたの傍に居る」みたいなことを言い残して、暫くするとすぐに去ってしまう。バトーは本当は、もっと素子と生身(?)の付き合いというか、接触(?)をしたかったのではないんでしょうか。

草薙少佐はいつだってこんな感じのクールな御仁なんだってのは分かってるつもりですが、「人と人が分かりあうためには、サイボーグや人形やら関係ない、ゴースト同士の直截なコミュニケーションで足りる」みたいなメッセージに私は受け取りました。そうだとすれば、なんと原理主義的というか、極端でありましょうか。

ゆえに何だか「悲しく」感じられてしまったのです。劇中の、バトーの「行けよポイントマン、後ろは俺が固める・・・・昔のようにな」という台詞は、少佐が人形の状態とはいえバトーの前に物理的に存在し、肉体同士の鬩ぎ合いがそこに在るから、云う事のできた台詞だったんじゃないでしょうか、私はバトーがこの言葉を言い放った瞬間ほど活き活きとした姿は無かったように思います。

この映画を見て『魍魎の匣』の一節を思い出しました。
「――科学は技術であり、理論であって本質ではない。――」(『魍魎の匣』995頁より抜粋)
いま現実に存在するロボットや機械は技術の結晶でしかなく、到底ヒトには程遠い。近い将来、機械が技術の範疇を越え、それ自体が本質となる日が来るのであれば、その日まで是非とも生き永らえてみたいものです。イノセンスのような世界は未だ遠い将来のことに感じられますから、京極堂のような体良く折衷してくれる人のお話の方が私は好きなのかもしれません。