ニッポン「不寛容」時代

「人間という哀れな動物は、もって生まれた自由の賜物を、できるだけ早く、ゆずり渡せる相手をみつけたいという、強い願いだけしかもっていない」(ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』)

サンデー毎日の今週の記事にニッポン「不寛容」時代というのがあった。心理学者や作家による「不寛容」の分析。原因を心理的に探ることも必要だと思うが、個人の心理に還元して分析してもどうも全体の靄々はとれない感じである。できれば社会学的観点から見る分析をして欲しかった。とはいえ興味深い記事である。特に、"主張をしない弱者"である「ハルウララ」のような存在に対しては判官びいきをするが、一旦そのような弱者が主張を始めると手のひらを返したように攻撃するという心理には、なるほどと思わされた。

「不寛容」関連でリンク。(ググると結構あります、時代的なキーワードなのかも)

政府の路線があり、それには利害得失がある。それに対して批判的な立場の人たちも日本の中にはいることが、結果的に、政府の路線のデメリットをカバーすることもある(政府に批判的な本人が、それを意図しているか、また好ましいことと考えるかどうかは別として)。ひとつの政治社会の中に多様性があり、懐の深さが確保されていることは、そういう面でも「力」になる。うすっぺらな一枚岩にこだわる狭量な考え方、つまり不寛容こそ、「国益に反する」のだ。

米国では小学校の始業前に国旗に敬礼する。その米国でも最高裁は国旗を焼く自由、敬礼しない自由を認めている。「人は限りない自由の重みに耐え切れず、自由から逃走する」と言った哲学者フロムを思い出す。お仕置きの蔓(まん)延は不寛容な時代の予兆だろうか。

でも、けがをする恐れや、自分に災厄が及ばない電話や手紙での抗議となると話は別です。顔が見えず、身元も分からない有利性を盾に、相手を一方的に非難し、けなし、攻撃する人の何と多くなったことでしょう。不寛容と、その裏返しにある無関心。歴史的にはファシズムの温床となってきた心理現象でもあります。

黒木 「自己責任」に名を借りた差別が広がっている。自分がその立場だったらという想像力が欠けている。不寛容な時代だと思う。敵を見つけないと済まないような。
徳留 学校でも社会でも、「多様な人間」の育成や能力が求められながら、人と少しでも違うと偏見を持ってしまう「標準志向」も根強い

「個人の自由」という考え方を背景とする他人への無関心は、一見、自由を担保するもののように見えて、そうではないと思う。無関心は、しばしば不寛容に転化する。そして今回は、その不寛容が自己責任という論理をまとって出てきた。見せかけの自由を担保して責任ばかりを強調する「不寛容」は、やがて人に限りない重責を負わせ、フロムの言ったように「自由からの逃走」を現出させる。「勝手にやれば」という無関心は、一歩間違えれば直ちに自分を攻撃し始める潜在的圧力なのであり、互いが互いの自由を捕縛し条件付きにするような閉塞状況ではもはや、だれも積極的に自由と権利を主張しなくなるだろう。悪貨なる「不寛容」は更なる「不寛容」を生み、良貨を駆逐するに違いない。

この悪循環を断ち切るのに必要なのは不寛容に不寛容を以って臨むことではなく、置換可能性の想像力ではないだろうか。「明日はわが身」の想像力、置換可能な相手の立場に立って考える想像力、あるいは無知のヴェール下の想像力こそが、求められているのだと思う。