自己責任の限界とイラク人質事件

自己責任の世の中である。

個人で年金を運用して、仮に増えようが減ろうが、自己責任。年俸制にした結果、給料が増えたとしても減ったとしても、自己責任。規制緩和の流れに乗って、新しいことに挑戦して、結果うまくいこうが負債を抱えこむことになろうが、自己責任。ペイオフ解禁に伴って、うっかり銀行の選択を間違えたばかりに、1000万円以上の預金が払い戻しされなくなったとしても、自己責任。明らかに危険だと分かりきってるイラクにわざわざ乗り込んでって、変な人達に拘束されて殺されそうになっても、自己責任、なのである。至極当然、分かりやすくて良い。そういうアフォは一遍死なないと分からないのかもしれない。

思えばバブルが崩壊して我が国の凋落がはっきりした頃から、「アカウンタビリティ」の名の下に、修正主義論者の人たちから、日本人の責任に対する曖昧さ、いい加減さが徹底的に批判されてきたと思う。

そのお陰か、経済的には自由主義的になってきているし、イラク人質事件に際して、多くの人が「自己責任で行ったのだから仕方ない」との主張をするようになった。これは明らかな変質である。

福田長官曰く、「(ダッカの時とは)時代が違う」わけである。

確かに時代は変わったと思う。今回の件では、何だかやけに冷たい反応が多いと感じられた。いまどき義理も人情もヘッタクレも無いのかもしれない。

しかしながら、今回の事件に関して言えば、自己責任の下にこれらの苦難は容認して然るべき、といった主張はあまりに過酷過ぎると私は思う。責任、責任と言うが、そもそも何の為の責任なのだろうか。"責任"という名の論理が正しければ、自らの死をも容認するのが、あるべき姿なのだろうか。冒頭、お金の話ばかり出したが、自らの失敗で借金を抱え込むことになったとしても、それは返せばよい話である。しかし命となると、同じ論理構造で結論を出すわけにはいかないと思う。

責任を果たす主体は、人間である。全てのことを合理的に予測し、合理的に判断し、自らの不実や不徳の致すところあれば、それに対応する責任をきちんと取る。そんなことは人間にはおよそ不可能である。

今回拘束された人々は、分不相応にも自己で取れる責任の限界を越えた行為をして他の日本人、政府、ひいては国際社会全体に多大な迷惑をかけている、という謗りは免れ得ないだろう。しかしながら、我々の方にも、人間の非合理性や限界というものを承知した上で、彼らに対する寛容の精神がもっと在ってもいいのではないだろうか。

不況のせいであろうか、最近の世情が殺伐としてきているように感じられる。